「夢十夜」から、こんな物語を考えてみました。(第二夜)

夢十夜「第二夜」から。没落した武士のプライドと絶望。

俺は侍だ。武士や侍たるもの、江戸の時代では歩いているだけで自分より下の身分の者どもが頭を深く垂れたものだ。気分次第で百姓どもを斬り殺しても大したお咎めもない。それが侍だ。

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ところが、時代は変わってしまった。どうしたというのだろう。慶喜様が大政奉還され、四民平等の世が実現した。おかげでもう誰も、俺の顔を見ても尊敬を表に出さなくなった。そればかりか、「時代遅れ」などと軽蔑されるまでになった。泥に塗れた穢い百姓どもめ。俺よりもずっと卑しい家柄のくせに、威張り腐った顔でそこここを歩き回るようになりやがって。

髷を結って太刀を腰に差し、将軍様のために命を懸けて戦う。これが侍の誇りだ。この誇りにキズをつけることは許されぬ。侍として生まれた以上、侍として生きるほかはないのだ。

しかし、このままでは生活は日を追って苦しくなる。今では俸禄米も尽きてしまった。先祖代々我が家が受け継いできた刀の鞘だの、鍔だのを質に入れてなんとか生活をしのいでいる。このままでは私は野垂れ死にしてしまう。ご先祖様に申し訳が立たぬ。何とかならないものか。ああ、世が呪わしい。

多くの人々は、時代が変わってから生き生きと立ち働くようになった。私は彼らに対し、ことごとく軽蔑のまなざしを向けていた。相手も相手でこちらを堂々と睨み返してきやがる。だが、連中を切り捨てることはできぬ。私は侍ではないのだ。身分を失ったのだ。ふらふらと彷徨った。気がついたら寺にいた。寺の和尚は俺の姿を一目見るなり、俺を本堂へ通した。

「お前は侍じゃな。もし本当の侍なら、これを悟れるはずじゃ。これを悟った暁には、お前の問題はおしなべて快方に向かうことじゃろう。趙州曰く無と。無とは何か?この問いに答えよ。

答えられなかった。

「答えられないところを見ると、お前は到底、侍ではないな。腰に刀を差したタヌキじゃ。人間の屑じゃ。」

この言葉は許せぬ。時代遅れとはいえ、坊主風情が武士を愚弄するなど、覚悟しやがれ。

「ははあ、怒ったな。悔しければ悟った証拠を持ってこい。」

和尚は言った。

きっと悟ってみせる。悟ったうえで、今夜また入室する。そうして和尚の首と悟りを引き換えにしてやる。悟らなければ、和尚の命が取れない。どうしても悟らなければならない。自分は侍である。もし悟れなければ自刃する。侍が辱められて、生きているわけにはいかない。綺麗に死んでしまう。(夏目漱石夢十夜 第二夜」より)

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暗闇の中で私は座禅を組んだ。なんとしてでも悟ってやる。短刀を手に握った。暗闇の中で振り払った。冷たい錆色の光を帯びて、短刀の切先は闇の中に白い線を引いた。手元から何かが逃げていくような気がする。この鋭い刃。そうだ、これこそが私の誇りだ。

刃先。この錆色の一点が急に愛おしくなった。これこそが侍、すなわち私だ。ぐさりと自分の腕を刺してみた。錆色を体内に取り込むのだ。痛みにも耐えられる。私は侍だ。体の血が手首の方へ流れてきて、握っている束がにちゃにちゃする。唇が震えた。

奥歯を強く嚙みしめる。眼は普通の倍以上も開けてみる。行燈が見える。掛物が見える。無だ!無だ!しかし線香の匂いが香った。なんだ、線香のくせに。無だというのに、分からんのか。

自分はいきなり拳骨を固めて自分の頭をいやというほど殴った。そうして奥歯をぎりぎりと噛んだ。両脇から汗が出る。背中が棒のようになった。膝の継ぎ目が急に痛くなった。膝が折れたってどうあるものかと思った。けれども痛い。苦しい。無はなかなか出てこない。出て来ると思うとすぐ痛くなる。腹が立つ。無念になる。非常に悔しくなる。涙がほろほろ出る。ひと思いに身体を大岩にでもぶつけて、骨も肉もめちゃめちゃに砕いてしまいたくなる。(夏目漱石夢十夜 第二夜」より)

自分はここまでしても、侍にはなり切れないのか。生半可な髷を結い、太刀を腰に差して歩いたところで、私は鎧兜をつけた人形にすぎぬ。耐えがたいほどの切ない塊が胸の中に固まった。その切ないものが体中の筋肉を持ち上げ、外に出よう、外に出ようと暴れまわる。ああ、これは無ではないな。私は思った。胸の中の苦しみの出口はなく、あらゆる感情の吹溜りは私の小さな体内の中に押し込められている。ああ、これは無ではないな。

ふいに、さっきの言葉が脳裏に蘇った。鎧兜をつけた人形。人形?

そのうちに頭が変になった。行燈も蕪村の絵も、在って無いような、無くって在るような気がした。(夏目漱石夢十夜 第二夜」より)

ちっとも無は現れない。しかし、そうだったのだ。無とは人形なのだ。

自分は感情という、どこまでも荒れ狂うかと思えば天国の泉のように静かな海を自分の中に持っている。だが、それは箱にすぎぬ。それは外に出ることができぬ。自分はしょせん人形なのだ。血が流れている人形にすぎぬ。侍は、この人形になり切れるからこそ、真の意味での滅私奉公ができる。命を棄てて戦える。髷が結ってあることが大切なのではなく、髷を結うことが肝心なのだ。

人形だとすれば、やはり何かの奴隷になって動くしか生き残る方法はない。幕府は死んだ。将軍様は遁世した。しからば私は、新しい主人を探さなければならぬ。「自分」という主人を。小さな箱の中のさざ波を。

暗闇の中で立ち上がった。私は短刀を使って髷を切り取り、出家の意志を申し上げるために、和尚の部屋へ向かった。

 

夢十夜

夢十夜

 
夢十夜・草枕 (集英社文庫)

夢十夜・草枕 (集英社文庫)

  • 作者:夏目 漱石
  • 発売日: 1992/12/15
  • メディア: 文庫