漱石「夢十夜」より。自殺の強い誘惑と後悔。

ーーー自殺を選んだ方は、死ぬ間際に何を思うのだろう。目の前に電車の車輪が迫ったとき。高層ビルの屋上から空を飛んでいる真っ最中。車の中で体が動かなくなり、意識が消えようとしている、まさにその瞬間。

ああ、これでやっと死ねる・・

もし喜びの感情を抱いて死へと歩んでいけたのならば、彼らの下した選択は正しかったのだろうか。

だが、もし、もはや死ぬしかないような、取り返しのつかない状況になったとき、「後悔」が胸を襲ってきたとしたら?

夏目漱石夢十夜 第七夜」から、とある生きづらい男の話。ーーー

画像1

大きな船に乗っていた。

この船は毎日毎晩、すこしも止まることなく黒い煙を吐いて波を切って進んでいく。すさまじい音がした。

波の底から太陽が出る。それが高い帆柱の真上まで来てしばらくかかっているかと思うと、いつの間にか大きな船を追い越して、先へいってしまう。太陽は船の進んでいく方向に沈む。

ある時自分は船の男を捕まえて聞いてみた。

「この船は西へ行くんですか。」

男はからからと笑った。

「西へ行く日の果ては東か。それはほんまか。東出る日のお里は西か。それもほんまか。身は波の上。流せ流せ。」と囃し立てる。

自分は大変心細くなった。いつ陸へ上れることだろう。どこへ行くのだかも全く分からない。ただ、波を切って進んでいくことだけは確かである。こんな船にいるよりいっそ身を投げて死んでしまおうかと思った。

乗合はたくさんいた。いろんな顔をしていた。空が曇って船が揺れた時、一人の女が手すりに寄りかかってしきりに泣いていた。彼女の眼を拭くハンカチの色が白く見えた。この女を見た時、悲しいのは自分ばかりではないことに気づいた。

夜になった。甲板の上に出て一人で星を眺めていたら、誰かがそばによってきた。「天文学を知っているか。」と尋ねてきた。自分はつまらないから死のうとさえ思っている。天文学など知る必要がない。黙っていた。

今度そいつは、「神を信じるか」と尋ねてきた。自分はやはり黙っていた。

ある時食堂に入ってみると、派手な衣装を着た若い女が一心不乱にピアノを弾いていた。その傍に背の高い立派な男が立って、唱歌をうたっている。彼らは彼ら以外のことにはまるっきり頓着していない様子であった。船に乗っていることさえ忘れているようだった。

自分はますますつまらなくなった。とうとう死ぬことに決心した。

そして、思い切って海の中に飛び込んだ。ところが、自分の足が甲板を離れて、船と縁が切れたその瞬間に、急に命が惜しくなった。心の底からよせばよかったと思った。けれども、もう遅い。自分は否が応でも海の中へ入らなければならない。

船は全く変わりなく、いつもの通り黒い煙を吐いて通り過ぎていった。自分はどこへ行くんだか分からない船でも、やっぱり乗っている方が良かったと初めて悟りながら、しかもその悟りを利用することができずに、無限の後悔と恐怖を抱いて黒い波の方へ静かに落ちていった。

夏目漱石著 「夢十夜 第七夜」より )

画像2

今回の夏目漱石の第七夜、いかがだったでしょうか。

このお話が自殺の誘惑と後悔を描いたものであることは明白だと思います。

自分は「人生」という黒い大きな船に乗っている。その船はいったいどこに進んでいるのやらさっぱり分からない。明確な目的地さえ示されておらず、いつ自分が船を降りるのかさえも分からない。とにかく不安で仕方がない。耐え切れない。もう死んでしまおうか、とさえ思う。

周りを見てみれば、確かに自分と同じ時間を生きている人間は数多く存在するが、めいめい自分のことに夢中になって過ごしており、誰も「この船はどこへ行くのか」なんてナンセンスなことを考えているやつはいない。

「宇宙はいったいどうなっているのか」とか、「神を信じるか」とか、そういう問いで心をいっぱいにすることで「人生」の所在なさから目をそらしている人間もいる。

食堂でピアノを弾く若い男女のように、自分たちの人生の悦びを味わうのに夢中で、余計なことを考える暇もなさそうな連中もいる。

そうした「人生を生き生きと過ごすことができる人々」が、漱石には羨ましくて仕方がなかったのでしょう。

彼はともすると「自分はどうして生きるんだ?」とか、「生きることに意味はあるのか?」とか、いわゆる考えてもどうしようもないことを考えてしまうような気の毒な性格をしていたのでしょう。

そのようなことを考えてしまうと、人生が退屈で仕方が無くなってしまいます。彼は自殺の強い誘惑にかられ、それを実行してしまいます。

すると、まさしく「死」が決定づけられたその瞬間に、彼は急激に後悔の念に駆られます。自分はやっぱり生きていた方が良かった、しかしもう遅い。もう死ぬしかない。

最後の最後まで救いはなかったのです。自殺によって彼は救われず、むしろ後悔の念に溺れながら死んでゆくことになった。

多くの方が自殺している昨今。

自ら死を選ぶ、ということは大変痛ましいことです。しかし、彼らがいまわの際に考えることが、このような絶望的な感情だったとしたら。

漱石先生はこう言いたかったのでしょう。

俺と似たような性格をしている、生きづらい気の毒な方々は、自殺などしようと考えずに最後までしがみついてでも生きてほしい。どんなに惨めでも、どんなに人に迷惑をかけてもいい。もはや取り返しのつかなくなった状況で「やっぱり死ななきゃよかった」と思うよりは。

 

夢十夜・草枕 (集英社文庫)

夢十夜・草枕 (集英社文庫)

  • 作者:夏目 漱石
  • 発売日: 1992/12/15
  • メディア: 文庫
 

 

 

夢十夜

夢十夜