遅読のススメ

読書。その習慣の意味するところは人によってそれぞれです。

多くの場合、何かを学ぶために人は本を読みます。

巷には多くの本が出回っています。現代では特に、インターネットの隆盛によって紙の本が売れなくなっています。出版社も生き残りをかけて必死にマーケティングを行っています。

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社会の競争は激化し、全体に「ゆとり」が無くなってきました。若者たちは特に恐怖に駆られています。とにかくお金を稼がないといけない。さもなければ、「負け組」と分類され、そのまま年を取り、たった一人で死んでいく。これが珍しいことでもなんでもなくなってきた。私自身も、自分で思っているより大きくこの恐怖感に捕らわれています。

金持ちになりたい。港区のタワーマンションに住みたい。ジャガーに乗りたい。何よりも、モテたい。

すべて人として当たり前の欲求です。

そのためには、情報があふれんばかりに氾濫するこの時代に、なるべく多くの情報を短時間で取り込むことができればできるほどコストパフォーマンスが良い。一日に何冊も本を読み、その内容をすべてインプットできる能力があれば、メンタリストDaiGoさんのような成功を夢見ることができるかもしれない。

そのために、「速読」の能力が必要だ。

たしかに。納得です。

 

しかし、ちょっと待ってほしいのです。あくせく考えて前に進もうとするのではなく、いったん立ち止まって考えてほしいのです。

はたして、これだけ多くの情報を「消費」した暁には、いったい何が残るのだろう??

毎日のように、超早いスピードで何冊も本を読みます。多くの情報が手に入り、知識も豊富になります。しかし、物事は必ず表裏一体で、メリットもデメリットもあります。「素早く文章を読む」ことのデメリットは何か?

それは、文章の細部に宿る美しさに気づかないまま読了してしまうことです。

本を読んだ後、「要約すると、全体的にこんな話だったよね」と誰かに語ることが出来さえすればいい、と思っているのなら、むちゃくちゃにもったいない話だなと僕は思います。

うまく伝わらないかもしれませんが、作家たちの書いた文章って、とてつもなく美しいものなんです。彼らが指先に血をにじませて書いた魂の一字一句を、マックのフライドポテトみたいに胃袋に流し込んでしまうのはあまりにも勿体ない。

じゃあ「美しい文章」って何なんだよ?

例えば、下のような文章です。

ウクライナの夜を知っておいでぢゃろうか。どうして、ウクライナの夜はご存じあるまい!さア御覧なされ!月は仲天から眺めおろし、広大無辺な蒼穹はいやが上にも果てしなく押し広がるように展開して、輝き、息づいてをる。下界はくまなく白銀の光にあふれ、妙なる空気はさわやかに息苦しく、甘いものうさを孕んで、薫香の大洋をゆすぶっている。神々しき夜だ!蠱惑的な夜だ!闇にとざされた森はさゆらぎもなく霊化したもののようにたたずみながら、厖大な陰影を落としてをる。また、かの池や沼は音もなく静まり返り、その水面の冷気と闇は暗緑の園によって邪険に区切られてをる。実桜と桜桃の樹のおぼこらしい叢林は、その根をおづおづと冷たい泉の中へ伸ばしているが、時々葉擦れの音を立ててざわめくのは、夜風といふ浮気男がちょいちょい忍び寄って接吻するのに腹を立てるのでもあろうか。見渡す限り地上のすべてがまどろんでいる。けれども天空は息づいてをる。ものみなが不可思議で、荘厳である。(ニコライ・ゴーゴリ作 平井肇訳 「ディカーニカ近郷夜話」より)

どうでしょうか。

作家ゴーゴリと訳者の平井肇氏が、文章の隅々まで、句読点に至るまで吟味に吟味を重ね、練り上げられた一つの芸術品として私たちの眼の中に飛び込んでくる、この贅沢で美麗な言葉の数々。

一字一句を読み落とさないよう、注意深く目をこらし、噛みしめながら読んでいきたくなるような、そんな名文もたくさんあります。

食事に喩えてみましょう。ファーストフードやカップラーメンなら、味も何も顧みず胃袋に流し込んでしまってもいいでしょう。しかし、フルコースのフランス料理を牛飲馬食で流し込んでしまうのはあまりにも勿体ない。このような感覚には同意していただけるでしょうか。

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フルコースのフランス料理を流し込むのは、なぜもったいないのか。

「ファーストフードやカップラーメン」よりもはるかにお金がかかっているから。これが一番大きな理由でしょう。

しかし、文章の場合は話が違ってきます。さっきのような美しい作品がブックオフで百円で手に入ったり、はたまたKindleにて無料で読めちゃったりします。お金がかからないものには価値がない、という感覚に毒されてしまうと、これらの文章もすべて「短時間でなるべくコスパよく消費すべきもの」になってしまうのも分かります。

でも、僕は断乎として言います。

低コストでいろんな文学にアクセスできるそんな時こそ、一つの作品をじっくりと一字一句味わうような機会を持って欲しい。

読んだ文章を忘れてしまってもいい。どんなあらすじだったのか、どんなお話だったのかを忘れてしまっても構わない。しかし、泥水の底に溜まった一握の砂金のように、一生自分の中に輝き、残り続けるような一塊を手に入れることができるような、そんな読書をしてほしい。

多くの方は仕事をして生きなければなりませんし、毎日時間に追われている方もたくさんいらっしゃると思います。何年かかってもいいのです。一つの文学作品をゆっくり、じっくり噛みしめて読む、という体験を一度はしてほしいな、と願っております。

生き残りをかけた出版社たちの、「速読をすすめてなるべく多くの本を買わせる」という販売戦略にひっかからずに文章を味わう体験が、そこらじゅうに情報が氾濫している現代だからこそ絶対に必要です。

このような体験はとっても贅沢なものだと思いますし、一人の未熟な若者の世間知らずな主張だと言われても仕方がない、と思います。それでも一人でも多くの方に、文章が本来持っている感動的な美しさに目を向けていただけることを願って、これからも投稿し続けたいと思います。