「感受性」なんぞ、はたしていいモノなんだろうか?

私のブログでは、古来の芸術家たちが血を滴らせて書いた至高の文学を皆様にご紹介することを目的にしております。

得をするため、勝つために自分のすべてのエネルギーを捧げるのではなく、目の前に広がる世界の様々なものに関心を持つこと、冊子の中にある小さな世界にも感動できる感受性を思い出すこと。

大人になってから笑いものにしてきた、道ばたに咲く花の美しさ、実家近くの用水路に住んでいる魚たちの顔つき。

そんな、ほんのちょっとした美しさに気づくこと。

自己紹介noteでも申しあげたとおり、激しい競争社会から半分だけ降りて、日常の中に潜む様々な美しさに気づく感受性を少しでも思い出して生きていくことができればどんなに素敵だろう、と思っております。

 

しかし、そのような生き方には、少なからず不幸の影がつきまとうのではないか、と最近思い始めています。

日本の小説家の中で最も有名な芥川龍之介もまた、そのような人間のうちの一人だったに違いありません。

人生を幸福にするためには、日常の些事を愛さなければならぬ。雲の光、竹のそよぎ、群雀の声、行人の顔ーーあらゆる日常の些事のうちに無上の甘露味を感じなければならぬ。しかし、人生を幸福にするためには?ーーしかし些事を愛するものは些事のために苦しまなければならぬ。古池に飛びこんだ蛙は百年の愁いを破ったであろう。が、古池を飛び出した蛙は百年の愁いを与えたかもしれない。いや、芭蕉の一生は享楽の一生であると同時に、誰の目にもみて受苦の一生である。我々も微妙に楽しむためには、やはりまた微妙に苦しまなければならぬ。ーーー人生を幸福にするためには、日常の些事に苦しまなければならぬ。雲の光、竹のそよぎ、群雀の声、行人の顔、あらゆる日常の些事の中に地獄の苦痛を感じなければならぬ。(芥川龍之介侏儒の言葉」より

以上の芥川の言葉の通り、日常のほんのちょっとしたものを好きになれる感受性を持ち合わせているような方は、日常のほんのちょっとしたことにも悲しまなければならない運命を抱えているのではないか。

最近、そんなふうに思っております。

自分の外にあるモノにたいする感受性があまりにも強いため、他人の顔色がちょっと変わっただけでもすぐに気づいてしまって申し訳なく思ってしまったり、目の前でこっぴどく叱られている人に感情移入してしまったり、またはちょっと目を向ければそこら中に転がっているような、道を行く人々の苦しみや悲しみの影をあっという間に感じ取ってしまったり。

しかし。

おそらく多くの方が感じられていると思いますが、この世は頭が良くて鈍感であればあるほどうまくいきます。

あらゆる社交は、少なからず暴力の匂いを含んでいます。ビジネスの場では特にそうではないでしょうか。営業や商売の場面でも、目の前の人間が何を考えているのかを考える能力は大切です。しかし、それは「いかに相手を自分の意に沿わせるか」「いかに相手を騙して商品を買わせるか」という目的を軸としたスキルに終始しています。

つまり、あらゆる社会的な関わりをうまくやるためには、少なからず「マインドコントロール」の才能が必要だ、ということです。

これには、まず第一に非常に頭がよく切れる必要があります。そして、とことんまで「鈍感」であること。つまり、自分の目的を果たした結果、相手がどのような不利益を被るか、相手は何を思うのだろうか、なんてことは露ほどにも考えないような悪党にならなければなりません。

いわゆる敏感な方は、これがどうしてもできないのだと思います。だから、自分の苦手なものでも一生懸命やっているつもりなのに、全く結果が出ず、苦しみながら生きている。

私もまた、社会的な関わりをうまくやれないような不器用な人間のうちの一人です。文学たちの優しさに依存しながら生きているような人間です。いや、「自分はうまくやれない」とか何とか言って、社会の中で戦うことから逃げているだけかもしれませんが。

競争社会から「半分」降りる、と書きましたが、やっぱり社会から完全に降りるわけにもいきません。そしたらもう生きていけなくなっちゃいます。苦しくても完全にドロップアウトするわけにはいきません。助けてくれるかどうかも分からないような「芸術」だの「文学」にすがりつきながら、なんとかうまくやれるように自分の生き方を模索していくしかないでしょう。

私は今後もこのブログも続けます。これからも文学に依存して生きていきます。しかし、言い出しっぺのくせに誠に僭越ながら、「文学」だの「芸術」だのにあまり期待しない方がいい、とも思っております。文学なんぞ読みたい人だけが読めばいいのですし、芸術はそもそも、どこに行くのかもわからない、惨めな道のうちの一つなのですから。